読書メモ

2015年4月刊。
昔から存在する「道路」に注目して、多摩地域の各市町村について、明治初期と現在の地図で比較して、その移り変わりを味わう本。

多摩地区在住の自分には、土地勘のある場所が多くて、とても面白い。
すべての市町村で、過去の現在の2枚の地図が欠かさず載っているのもうれしい。

驚くのは、昭和初期の八王子の街の「巨大」っぷり。
昭和10年の立川の地図では、駅の北側の一部だけが街で、他は一面の桑畑だと言うのに、昭和5年の八王子の地図では、駅周辺にすでに巨大な街が形成されていて、その大きさにはただただ驚くばかり。

大正10年の時点で、多摩川にかかる橋は、東海道線より上流では、鉄道橋は日野まで、道路橋は青梅まで、ひとつも橋がなかったなんて、信じられない。

また、「街道名は本来『行き先表示』が原則」という解説には、大いに納得。
以前から疑問に思っていたことが解消しました。
今でも「八王子街道」は八王子には無いですもんね。


引用メモ

逆に目的地・大山からの視点で考えてみると分かりやすいが、大山からいろいろな方角に延びる道をすべて「大山道」と読んだら区別がつかないので、おそらく平塚道、江戸道などと呼んでいたに違いない。現在では道路の名称を1つに固定する傾向があるので、国道20号が神奈川県から甲斐国に入っても甲州街道と称しているようだが、本来それはおかしいのだ。(p.9)
ちなみにこの種の道(立川の江の島道など)は、終点までその道が通じているというのではなく、江の島道であれば、そちらへ行く人はこの道を利用する程度の意味である。(p.49)
街道名というのは、鎌倉へ向かう道はどれも「鎌倉道」であったように、最初はあまり移動しない地元の人がミクロの視点でそれぞれ呼んでいたため、場所により時代により異なるのは当たり前で、しかも交通の流れの変化も受けて変遷は著しかった。それが行動半径の飛躍的に広がった近代を迎えて徐々に固定化していったのである。(p.93)
現在では府中市内でも府中街道と呼ばれているのだが、街道名は本来「行き先表示」が原則であり、かつては川越街道と称した。(p.134)
この頃(明治26年)の多摩地域で都市らしい場所と言えば八王子が唯一の存在で、隣の(中略)といった町とは比較にならないほどの規模をもっていた。(p.58)
多摩川から採取された膨大な量の砂利が近代都市・東京のビルや鉄道の高架を今も支え続けているわけで、都心の高架を見上げながら、数万年前に大菩薩峠あたりにあった岩が流れ流れて今ここに留まっているのだなあ、などと考えれば日常の些事は気にならない。(p.93)

地図でたどる多摩の街道――30市町村をつなぐ道

今尾恵介
けやき出版 2015-04-01
by ヨメレバ