この本この行: 読書メモと引用メモ


書評未満。読書感想文未満。
読んだ本のエッセンスと引用を、コンパクトに書き留めています。読書のきっかけになれば幸いです。
図書館の蔵書検索には「カーリル」がおすすめ。

カテゴリ:知識教養 > 地図


この本 この行

そのやり方は、それまでわれわれが学び、実行していた方法とは全く違っていた。われわれのやり方は地図上に定規で線を引き、折れ曲がる地点に円弧定規でカーブを挿入する方法だった。(中略)ところがドルシュ(ドイツから来た道路計画の専門家)は(中略)等高地図上にフリーハンドで線形を描けという。そして、その自由に描かれた線を基礎に、円定規とクロソイド定規を使って、工学的に計算できる線に置き換えるのである。クロソイドとは曲率が徐々に変化する曲線系の一つである。結果として、高速道路の線形は流れるように美しく、周囲の地形に調和したものになる。(p.193)

読書メモ

2015年5月刊。
日本の道路の歴史。太古の昔の道路から、現代の高速道路まで。
著者は、高速道路の計画や建設に携わってきた人。

高速道路を建設しようとすると、不思議と古代の遺跡(道路や古墳)と重なることが多いのだそうだ。そして、それには理由がある。

以前、NHK で見た『日常にひそむ数理曲線』で紹介されていた「クロソイド曲線」のことが出てきて、おお! と思った。
(インターチェンジのカーブの形は「クロソイド曲線」と言って、 ハンドルを一定の速度で回し続けたときの車の経路と同じになるように設計されている)

実に渋い本。


引用メモ

昔は情報も人が自ら移動して伝えるものであり、敏速な交通手段が必要だった。(p.34)
島の名前にもなっている淡路とは「阿波路」つまり「阿波へ行く道」の意味である。(p.55)
ローマの道以来、西欧では馬車が通ることが基本であったが、わが国では騎馬を基準とした時代は遠く去り、近世ではもっぱら徒歩を基準とする構造であった。(p.128)
戦後の昭和21年(1946)に4409人であった全国の交通事故の死者数は昭和34年(1959)には一万人に達し、「交通戦争」の言葉も生まれた。(中略)
戦後急増していたその数は、(中略)昭和45年の16765人を頂点として次第に減少し、シートベルト着用の義務化、飲酒運転の厳罰化、自動車の安全機能の向上などもあって、平成26年(2014)は4113人となり、14年連続で5000人を下回り、過去最悪であった昭和45年の死者数の4分の1以下になった。今後もさらに漸減することが期待される。(p.207)
以前は立体横断施設(横断歩道橋や地下横断歩道)の設置が主流であった。しかし、これは自動車優先であって歩行者に一方的に負担を強いるものとして、今日では横断歩道を復活して、歩行者の負担軽減を図る場合もあり、考え方は多様化している。(p.208)
日本は土地が少なく極限まで有効利用するから、そのために道路が必要なのである。日本は「道路王国」ではなく、「道路がなくては生きてゆけない国」であり、「道路を公のものとして大事にしてきた国」なのである。(中略)昔の道路は99%までは現在も道路である。昔の道筋をたどれないところはほとんどない。(中略)日本では昔から道はほとんどすべて公道であった。そして大切にしてきたのだ。たとえそれが帯のように細いものだったとしても。(p.229)

(太字は引用者による)


関連リンク

この本を読んだきっかけの記事。↓

「クロソイド曲線」のことが紹介されている映像作品。↓

日常にひそむ数理曲線 DVD-Book

ナレーション:太田光(爆笑問題) ポニーキャニオン 2010-07-16
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道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)

武部 健一 中央公論新社 2015-05-22
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読書メモ

2014年10月刊。
国道マニアの入門書。そんな趣味のジャンルがあったとは…。

彼らは国道標識のことを「おにぎり」と呼ぶそうだ。かわいい。
昔、道路の真ん中に書かれていた「40高中」というペイントの写真、懐かしい。


引用メモ

一見、高速道路に見えるが、法律上は一般国道であるというケースがある。圏央道(国道468号)などがそれだ。(p.46)
国道は他の国道に接続し、ネットワークを形成することが重要な要件となる。このため、他の国道に接続せず、浮き上がっている国道は一本もない。(p.95)
特に重要な部分のみを「指定区間」として国土交通省で直轄し、他の部分は「補助国道」として都道府県または政令指定都市が管理を受け持つよう、制度が変更されている。国道というのは国の道というぐらいだから全部国で管理しているのかと思いきや、実はほとんどの部分は国が一部補助金を出しているだけというのが実体なのである。(p.102)
国道標識は、丸みを帯びた三角形で、隅がやや丸く削られたデザインだ。これを、マニアたちは親しみを込めて「おにぎり」と呼び習わす。(p.159)

ふしぎな国道 (講談社現代新書)

佐藤 健太郎
講談社 2014-10-17
by ヨメレバ


読書メモ

2015年4月刊。
東京大空襲(昭和20年3月)の数日前に米軍により撮影された、東京各地の鮮明な航空写真。

米軍の撮影目的は、大規模な空爆を実行する前の、緻密な空襲計画の立案であった。
この写真が撮影されたわずか数日後に、この写真に写っている大部分の地域が焼きつくされたのだというから、言葉を失う。

掲載されている航空写真には、施設名が細かく書き込まれていて、資料性が高い。
当時、一般に発行されていた地形図では、これらの軍施設は「改描(かいびょう)」により伏せられていたので、当時の地図からは読み取れない貴重な情報だと思う。
それにしても、東京にはこれほど多くの軍関連施設があったとは驚きだ。

当時の大規模軍施設の位置を現在の地図で確認すると、大規模公園だったり、商業施設だったり、自衛隊の敷地だったりする。
それらの場所は、今では「平和公園」のような名前になっている場所もあり、命名には意味が込められているのだとしみじみ思った。

歴史番組などでよく耳にする「東京は焼け野原になった」の意味を、視覚的に理解できる本。

引用メモ

米軍は(中略)昭和19年10月以降、空中写真の撮影をおもな任務とする日本上空への偵察飛行を実施していた。これから紹介する空中写真は、昭和19年11月から昭和20年7月までの期間に、B29を改造した米軍の写真偵察機F13から撮影されたものである。(中略)撮影目的は、綿密な空襲計画の立案だった。(p.5 はじめに)
屋根には白く線が引かれているのが目につくが、これは迷彩である。長大な建物を細かく区切って見せて空襲の目標となるのを防ぐ効果を狙ったものだが、この写真を見ればわかるように、米軍に対してどれほどの効果があったかは、はなはだ疑問である。(p.22)
現在と同じく、原宿には表参道がきれいな一直線を描いている。この写真は5月17日に撮影されたが、わずか8日後、このあたりも焼夷弾で焼き尽くされるのである。人々は明治神宮内苑や外苑、青山霊園を目指して逃げ惑ったが、炎や熱風に見舞われ、途中で次々力尽きていった。欅並木が整然と並ぶ表参道に逃れた人も多かったが、直線で道幅が広かったことが災いし、道路や熱風の通り道となった。炎の熱風が容赦なく避難民に襲いかかったのである。夜が明けた表参道の路面は、避難途中で猛火の犠牲になった焼死体で埋め尽くされていた。(p.86 新宿・代々木)

写真と地図でめぐる軍都・東京 (NHK出版新書 457)

竹内 正浩
NHK出版 2015-04-10
by ヨメレバ


読書メモ

2015年4月刊。
地図(特に国土地理院発行の「地形図」)を読む上で、知っているとより面白く読める知識が満載。
地図の表現方法や、地形と地名の関連性、などなど。

地図の等高線は、空中写真の立体視を使って描く、というのには驚いた。
ご多分に漏れず、私も等高線を読むのは苦手です。


引用メモ

私は基本的に地形図マニアである。なぜかと言えば地形図というものは、本文にも書いたが「景色が見える地図」という側面に大きな魅力があるからだ。どこに何があるかという情報に加えて、そこにどんな景色が広がっているかも表現する。まるで総合芸術のような媒体であり、地図の究極の進化系といっても差し支えない。その地形図が、どんな語り口で現地の様子を伝えてくれているかを解説する、というのが本書の大きな目的である。(p.6 はじめに)
地図の業界では「1万分の1」ではなく「1万分1」という表記を使う。これは国土地理院のホームページなどをご覧いただければわかるが、戦前から「二万五千分一地形図」のように長らく続いてきた伝統的な表記である。読み方は(中略)「いちばんぶんのいち」で今と同じなのだが、業界人の中には「いちまんぶんいち」と文字通りに読む方もおられる。(p.75)
素人考えだと、海面は世界中どこでもつながっているのだから一定ではないかと思ってしまうけれど、実際には各地で相当に異なっていて、たとえば日本海側は太平洋側より最大数十センチ高い。(p.83)
現在の等高線は空中写真の実体視(立体視)によって描く。(中略)隣接した写真を図化機という専用の機械に入れると立体的に見えるようになっていて、しかも実際よりも凹凸は過剰に利くようになっている。これは高速で移動する飛行機で撮影したため「右目」と「左目」の画像が実際に空から見るより離れているためだが、結果的に微細な起伏を見逃さないためのうまい仕掛けになっている。(p.98)

地図入門 (講談社選書メチエ)

今尾 恵介
講談社 2015-04-11
by ヨメレバ


読書メモ

2015年4月刊。
昔から存在する「道路」に注目して、多摩地域の各市町村について、明治初期と現在の地図で比較して、その移り変わりを味わう本。

多摩地区在住の自分には、土地勘のある場所が多くて、とても面白い。
すべての市町村で、過去の現在の2枚の地図が欠かさず載っているのもうれしい。

驚くのは、昭和初期の八王子の街の「巨大」っぷり。
昭和10年の立川の地図では、駅の北側の一部だけが街で、他は一面の桑畑だと言うのに、昭和5年の八王子の地図では、駅周辺にすでに巨大な街が形成されていて、その大きさにはただただ驚くばかり。

大正10年の時点で、多摩川にかかる橋は、東海道線より上流では、鉄道橋は日野まで、道路橋は青梅まで、ひとつも橋がなかったなんて、信じられない。

また、「街道名は本来『行き先表示』が原則」という解説には、大いに納得。
以前から疑問に思っていたことが解消しました。
今でも「八王子街道」は八王子には無いですもんね。


引用メモ

逆に目的地・大山からの視点で考えてみると分かりやすいが、大山からいろいろな方角に延びる道をすべて「大山道」と読んだら区別がつかないので、おそらく平塚道、江戸道などと呼んでいたに違いない。現在では道路の名称を1つに固定する傾向があるので、国道20号が神奈川県から甲斐国に入っても甲州街道と称しているようだが、本来それはおかしいのだ。(p.9)
ちなみにこの種の道(立川の江の島道など)は、終点までその道が通じているというのではなく、江の島道であれば、そちらへ行く人はこの道を利用する程度の意味である。(p.49)
街道名というのは、鎌倉へ向かう道はどれも「鎌倉道」であったように、最初はあまり移動しない地元の人がミクロの視点でそれぞれ呼んでいたため、場所により時代により異なるのは当たり前で、しかも交通の流れの変化も受けて変遷は著しかった。それが行動半径の飛躍的に広がった近代を迎えて徐々に固定化していったのである。(p.93)
現在では府中市内でも府中街道と呼ばれているのだが、街道名は本来「行き先表示」が原則であり、かつては川越街道と称した。(p.134)
この頃(明治26年)の多摩地域で都市らしい場所と言えば八王子が唯一の存在で、隣の(中略)といった町とは比較にならないほどの規模をもっていた。(p.58)
多摩川から採取された膨大な量の砂利が近代都市・東京のビルや鉄道の高架を今も支え続けているわけで、都心の高架を見上げながら、数万年前に大菩薩峠あたりにあった岩が流れ流れて今ここに留まっているのだなあ、などと考えれば日常の些事は気にならない。(p.93)

地図でたどる多摩の街道――30市町村をつなぐ道

今尾恵介
けやき出版 2015-04-01
by ヨメレバ

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