この本この行: 読書メモと引用メモ


書評未満。読書感想文未満。
読んだ本のエッセンスと引用を、コンパクトに書き留めています。読書のきっかけになれば幸いです。
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タグ:今尾恵介


読書メモ

2015年4月刊。
地図(特に国土地理院発行の「地形図」)を読む上で、知っているとより面白く読める知識が満載。
地図の表現方法や、地形と地名の関連性、などなど。

地図の等高線は、空中写真の立体視を使って描く、というのには驚いた。
ご多分に漏れず、私も等高線を読むのは苦手です。


引用メモ

私は基本的に地形図マニアである。なぜかと言えば地形図というものは、本文にも書いたが「景色が見える地図」という側面に大きな魅力があるからだ。どこに何があるかという情報に加えて、そこにどんな景色が広がっているかも表現する。まるで総合芸術のような媒体であり、地図の究極の進化系といっても差し支えない。その地形図が、どんな語り口で現地の様子を伝えてくれているかを解説する、というのが本書の大きな目的である。(p.6 はじめに)
地図の業界では「1万分の1」ではなく「1万分1」という表記を使う。これは国土地理院のホームページなどをご覧いただければわかるが、戦前から「二万五千分一地形図」のように長らく続いてきた伝統的な表記である。読み方は(中略)「いちばんぶんのいち」で今と同じなのだが、業界人の中には「いちまんぶんいち」と文字通りに読む方もおられる。(p.75)
素人考えだと、海面は世界中どこでもつながっているのだから一定ではないかと思ってしまうけれど、実際には各地で相当に異なっていて、たとえば日本海側は太平洋側より最大数十センチ高い。(p.83)
現在の等高線は空中写真の実体視(立体視)によって描く。(中略)隣接した写真を図化機という専用の機械に入れると立体的に見えるようになっていて、しかも実際よりも凹凸は過剰に利くようになっている。これは高速で移動する飛行機で撮影したため「右目」と「左目」の画像が実際に空から見るより離れているためだが、結果的に微細な起伏を見逃さないためのうまい仕掛けになっている。(p.98)

地図入門 (講談社選書メチエ)

今尾 恵介
講談社 2015-04-11
by ヨメレバ


読書メモ

2015年4月刊。
昔から存在する「道路」に注目して、多摩地域の各市町村について、明治初期と現在の地図で比較して、その移り変わりを味わう本。

多摩地区在住の自分には、土地勘のある場所が多くて、とても面白い。
すべての市町村で、過去の現在の2枚の地図が欠かさず載っているのもうれしい。

驚くのは、昭和初期の八王子の街の「巨大」っぷり。
昭和10年の立川の地図では、駅の北側の一部だけが街で、他は一面の桑畑だと言うのに、昭和5年の八王子の地図では、駅周辺にすでに巨大な街が形成されていて、その大きさにはただただ驚くばかり。

大正10年の時点で、多摩川にかかる橋は、東海道線より上流では、鉄道橋は日野まで、道路橋は青梅まで、ひとつも橋がなかったなんて、信じられない。

また、「街道名は本来『行き先表示』が原則」という解説には、大いに納得。
以前から疑問に思っていたことが解消しました。
今でも「八王子街道」は八王子には無いですもんね。


引用メモ

逆に目的地・大山からの視点で考えてみると分かりやすいが、大山からいろいろな方角に延びる道をすべて「大山道」と読んだら区別がつかないので、おそらく平塚道、江戸道などと呼んでいたに違いない。現在では道路の名称を1つに固定する傾向があるので、国道20号が神奈川県から甲斐国に入っても甲州街道と称しているようだが、本来それはおかしいのだ。(p.9)
ちなみにこの種の道(立川の江の島道など)は、終点までその道が通じているというのではなく、江の島道であれば、そちらへ行く人はこの道を利用する程度の意味である。(p.49)
街道名というのは、鎌倉へ向かう道はどれも「鎌倉道」であったように、最初はあまり移動しない地元の人がミクロの視点でそれぞれ呼んでいたため、場所により時代により異なるのは当たり前で、しかも交通の流れの変化も受けて変遷は著しかった。それが行動半径の飛躍的に広がった近代を迎えて徐々に固定化していったのである。(p.93)
現在では府中市内でも府中街道と呼ばれているのだが、街道名は本来「行き先表示」が原則であり、かつては川越街道と称した。(p.134)
この頃(明治26年)の多摩地域で都市らしい場所と言えば八王子が唯一の存在で、隣の(中略)といった町とは比較にならないほどの規模をもっていた。(p.58)
多摩川から採取された膨大な量の砂利が近代都市・東京のビルや鉄道の高架を今も支え続けているわけで、都心の高架を見上げながら、数万年前に大菩薩峠あたりにあった岩が流れ流れて今ここに留まっているのだなあ、などと考えれば日常の些事は気にならない。(p.93)

地図でたどる多摩の街道――30市町村をつなぐ道

今尾恵介
けやき出版 2015-04-01
by ヨメレバ


読書メモ

2015年2月刊。
地図に詳しい今尾さんが、珍しい地名の場所を訪ねて、その名前の由来を聞きに行った散歩録。

今尾さんの本にしては地図が少なくてさみしいな…と思っていたら、暖かみのあるほのぼのした文体に癒やされながら、楽しく読んだ。

「談合坂」も、言われてみれば確かに珍地名。


引用メモ

(名古屋市営地下鉄の)名城線は日本の地下鉄では唯一環状運転を行っている路線で、特筆すべきなのはJR山手線や大阪環状線のように「内回り」「外回り」というわかりにくい用語を使わず、「右回り」「左回り」にしていることだ。内回り外回りという言葉は実に不便で、「左側通行だから、えーとどちらを走るんだっけ」という思考を利用者に強いる。(p.56)
低湿地は江戸のゴミ捨て場でもあり、それに運河を浚渫した泥も加わり、それらが積み上げられたところに町場が築かれている。
付け加えれば、江戸時代のゴミはすべて土に還るものなので、現在のプラスチックとかビニール混じりの金属片といった厄介なものは一切ないから、よほど環境に優しかったに違いない。(p.111)

ふらり珍地名の旅 (単行本)

今尾 恵介 筑摩書房 2015-02-19
売り上げランキング : 514118
by ヨメレバ


読書メモ

2015年2月刊。
昔の地図と鉄道の両方に詳しい今尾恵介さんの本。
建設当時の資料を紐解いていくシリーズの、京王線・西武線・東武線 編。

厚い本なので、身近な京王線のところだけ読もうと思ったら、面白くて全部読んでしまった。

京王線のルートが当初計画の甲州街道沿いから今のルートに変更されたのは、多摩川と浅川を別々に架橋するのが大変だったので、合流直後の下流側(今の聖蹟桜ヶ丘)を通るように変更した、という仮説が面白い。

西武線で一番最初に開通したのが今の西武国分寺線だったとは意外。
当時は国分寺〜川越間の直通運転で、しかも今の中央線と直通運転していたとは!
ほぼ南北に位置する両地点を一直線で結ばずに、くの字に曲げて入間川を経由しているのは、発起人が入間川町の人が多数だったから、らしい。


引用メモ

明治44年(1911)のこの時に現在線のルートがほぼ固まったようだが、もし当初のルートで建設した場合は中央本線と並走する形で不利なこと、それに加えて多摩川と浅川を別々に架橋する負担の大きさを考慮したのではないだろうか。浅川が多摩川に合流したすぐ下流側を現在の京王線が渡っているのは、この理由が大きいと思われる。(p.34 京王線)
京王は昭和12年(1937)5月1日には10か所の駅名を一斉に改めた。この改称の規模は空前絶後で、具体的には次の通りである。

四谷新宿 → 京王新宿
停車場前 → 省線新宿駅前
京王車庫前 → 桜上水
市公園墓地前 → 多磨霊園
関戸 → 聖蹟桜ヶ丘
百草 → 百草園
高幡 → 高幡不動
多摩川原 → 京王多摩川
横山 → 武蔵横山
御陵前 → 多摩御陵前
(p.46)
「犬猿の仲」の両者のホームが並ばされていたからこそ、今に至るまで池袋線と新宿線の相互で便利な乗り換えが可能になっている。具体的には池袋線が所沢駅の前後でSカーブで曲がりくねって接続したことで、本川越方面から池袋へ、また反応方面から西武新宿への乗り換えが同じホームで行なえる絶妙な構造になったのである。(p.150 西武線 所沢駅)

地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み: 関東(2)京王・西武・東武

今尾 恵介 白水社 2015-01-22
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by ヨメレバ

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